新紙幣の発表がされ、皆さんの興味がまず渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎って誰?から始まります。
勤勉でなくとも、福沢諭吉や伊藤博文、聖徳太子は「あー!あの人ね!」とピン!ときますが、今回のお三方は、、、全員知らない。。。という人の方が多いようです(苦笑)
特に話題にあげっているのは、新一万円札の【渋沢栄一】氏。
渋沢栄一は教科書でいう日本史では目立つ存在では確かにありません。
では、
日本銀行、JR東日本、帝国ホテルはご存知ですよね?
これらは渋沢栄一が設立した会社です。
彼の別名は「日本資本主義の父」。
500以上の企業設立に貢献し、病院・教育施設、さらには街までも計画するほどの偉人だったのです。
実業家としては有名すぎるほどの渋沢栄一。
聞くと、生まれは田舎の農家。
そんな渋沢少年が偉大な実業家になるまで、そんなヒストリーがあるのでしょうか?
わかりやすく解説していきます!
渋沢栄一は生まれながらの商業人
1840年(天保11)2月13日、埼玉県深谷市血洗島で生まれる。
家は畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を営む豪農。
幼少期から父親に算式など、従兄弟の尾高惇忠から論語など学ぶ。
つまり一般的な農家ではなく、商取引を専門にしていた大規模経営の農家さんだったので、小さなころから商業の教えを父親から懇々と教えられ、身についたことは間違いないですね!
高崎城乗っ取り断念、深谷を離れる
尊王攘夷の思想を持ち、討幕を目指す志士になり、なんと従兄弟たちと共に群馬県の高崎城を乗っ取ろうと試みるも、中止した。
自伝より、
秀吉も農民から身を起こし、天下とった。自分も農家の生まれだが、身を起こして国難に立ち向かうのである。
しかしそれからというのも、役人に目を付けられ深谷にいることが困難となった渋沢は京都へ向かう。
若き日の渋沢青年は、討幕という使命に燃え、少々荒っぽい作戦に出ようとしたのですね。この頃は経済ではなく、政治の道にまっしぐらだったことが窺えます。
23歳徳川幕府に仕える!?
故郷深谷から京都へ来た渋沢栄一23歳。
討幕という使命に燃えながらも、それが実行できずついに生活が困窮する事態に!
渋沢は知り合いの伝で一橋(徳川)慶喜に仕えることに。
なんで?なんで!?ですよね笑
当時、「尊王攘夷」と「佐幕・開国」が対立していたかのように言われますが、「尊王攘夷」はむしろ国民の総意。一橋慶喜は天皇を敬おうという考えの持ち主であったため、尊攘派の渋沢が慶喜に仕えることは、そんなに無理はない。
(引用:モーニングショー 東京大学教授 歴史学者 本郷和人氏談)
27歳でフランスへ留学
渋沢は、一橋家の財政の改善に尽力し、その手腕を認められていた。
27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・徳川昭武がパリの万博博覧会に参加することとなり、金勘定ができる渋沢栄一が随行員として選ばれ、一橋家からの支援で留学も兼ねた渡仏を果たす。
ヨーロッパの資本のあり方を習得
留学費用で大儲け
一橋家から支援されていた留学費を運用し、フランスの公債を買って500~600円(現:500万円~600万円)儲けた。
この経験で、政治から経済へのスイッチが入ったということになりそうですね!
29歳明治維新で帰国
日本では明治維新となり、ヨーロッパから帰国した渋沢栄一は、静岡に「商法会所」を設立した後、明治政府に招かれ大蔵省の官僚となり、貨幣制度の導入に貢献しました。
慶喜氏とはどうなったの?
明治になって帰国した渋沢栄一は大活躍したことはわかりましたが、恩人・一橋慶喜とはどうなったの?と思いますよね!
渋沢は帰国後、慶喜の元を訪れ報告をしたところ、徳川慶喜が
「これから君は、君の道を進みなさい。」
と仰ったそうなのです!(慶喜氏、カッコよすぎ!!)
殿の許しをきちんと得てから、渋沢栄一は官僚へ進まれたとのことです。
きちんと筋を通されるところが素敵ですね☆
33歳実業家へ転身
非常に優秀で大臣席も目の前だった渋沢栄一は33歳に官僚を辞め、一民間実業家へ転身しました。
その初めの仕事が「第一国立銀行」。
それからの活躍は言わずもがなですね!
ここまで、日本資本主義の父・渋沢栄一が実業家になるまでの遍歴をまとめました。
これを知ってから、華々しい手腕を拝見するとまた渋沢栄一氏への見方がまるで変ってくるようです。